隊長:尾﨑剛通 Takemichi Osaki
民間災害ボランティア団体「紀州梅の郷救助隊に懸ける思い」
1995年1月17日の明け方の午前5時46分、「ズズズーッ」地中から迫るように聞こえた音で目を覚ました。すぐにグラグラッと家が揺れ、天井の電灯が振り子のように揺れている。地震だと思い慌ててテレビをつけてみると兵庫県を震源とする地震が起きていた。そう、阪神淡路大震災である。
被害が広がっていく現場の様子が次々と映し出されていく。
私は当時、地元消防団の分団長を務めていたので、ここから被災地までなら2時間ぐらいで行ける。召集がかかると思い待った、しかし結果として連絡はなかった。
なぜなら、消防団は地域の消防防災組織のため思い通りには出動できなかったのだ。
その時は行政組織の難しさを痛感し、何もできなかった自分に情けなく本当に悔しかった。
メディアが伝える惨状を見ながら、心の中で自分に対し「お前は何をしてるんなよ、お茶を飲みながら行政を批判し、何もしていないではないか」と自問してみると、行政の対応を批判している自分にふと気が付き、消防団として出動できなかった悔しさより、自分の不甲斐なさを痛感しながら恥ずかしく感じた。
ならば、行政に頼り切っては駄目、自分で行動しよう。そう決意し、枠にとらわれない民間のボランティア団体を立ち上げようと考えた。
しかし、その時に大きな壁が立ちはだり簡単にはいかなかった。
災害現場での救助活動は危険が伴うため、参加者の命を保障をできるのかということだった。
私自身は命を落とすことに戸惑いはないが、他の者の命を保障できるはずもなく、悩みに悩んだ。そして結論を出すのに半年を費やし、導き出した結論は「自主、自由、自己責任」ということだった。
ボランティアには自分自身の判断で自主的に参加する、入隊するのも辞めるのも自由、すべては自己責任。無責任な言い方に思われるかもしれないが、被災地に行って活動する場合、事故に遭遇したり命を落とす危険性は十分にある。安全の保障をできるはずもない。そう考えたときに結論はこれだと確信した。
また、メンバーを集めるのも簡単ではなかった。私の思いに賛同してくれる者がいるのかということだ。
地元消防団員に参加を呼び掛けてみたが返事は鈍く、強引に誘うわけにもいかなかった。
そこで、当時から私はみなべ町の道場で少林寺拳法を子供たちに指導していたので、その時の同志に声をかけてみたところ、快く賛同してくれた。その時は嬉しかった。
こうして震災と同じ年の12月に少林寺拳法南部道院の同志を中心として、みなべ町の住民を含め60名で民間災害ボランティア団体「紀州梅の郷救助隊」を立ち上げることができた。
「来る者拒まず去る者追わず、誰もやらないからやるのでなく誰もやらなくともやる」を救助隊のスローガンとして掲げ、被災地行政の災害対応を見て、被災者からの生の声を聞いて、活動経験を南海地震等に生かすことを使命として活動を開始することにした。
ナホトカ号重油流出事故をはじめ、中越地震・東日本大震災・熊本地震など、災害出動回数56回、17県29市町村に出動し、延べ147日、行方不明者の捜索活動や瓦礫の撤去などを行ってきた。
出動した隊員はもちろん、地元みなべでサポートする隊員、また、資金や物資を提供してくれるみなべ町民や県民の方々、何より出動隊員の留守を守る家族の協力があればこそ成し遂げてきた活動である。
創立時には南海地震も視野に入れてはいたものの、立ち上げから25年が経過した今日、徐々にその重要性は高まってきていると感じている。
そのため、昨年に南海地震対策として災害時に被害の少ないであろう地域で、有事に対応できる役員を配置し組織固めを行った。
私も70歳を超え、いつまで先頭に立って活動できるかはわからないが、体力、気力、命の続く限り、共に活動してくれる150名余りの隊員と共に、いつか必ず来る南海地震を見据えながら、隊として全力で取り組んで行こうと思っている。
末尾として、明日は我が身、私を含め誰もがいつかは多くの皆さんに助けてもらうことになるかもしれない。ボランティアの方法には色々な形がある。
思っているだけでは何も伝わらない、今自分の出来る範囲で思いを行動に移してもらいたいと願う。